第122回 武蔵七党(むさししちとう)と栢間(かやま)氏
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
平安時代末頃から各地で武士が勢力を強めていく中、武蔵国(むさしのくに)(現在の埼玉県の辺り)では「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活躍しました。武蔵七党の数え方には諸説ありますが、『武蔵七党系図』では横山党・猪俣(いのまた)党・野与(のよ)党・村山党・西党・児玉党・丹(たん)党の七党とされています。
この内、古利根川と元荒川の間を活動の拠点としていたと考えられている野与党の系譜には、「鬼窪(おにくぼ)」「白岡」「笠原」などとともに、「萱間(かやま)」という一族も確認できます。この一族は「栢間」とも表記され、現在の久喜市の栢間地区を拠点に活動していたと考えられています。
栢間(萱間)氏の名前は鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』にも登場し、『武蔵七党系図』に出てくる名前でも確認できます。また、正元(しょうげん)2年(1260)正月に鎌倉で行われた幕府の弓始(ゆみはじめ)の行事で、栢間左衛門次郎季忠(ときただ)が優れた弓の腕前を披露(ひろう)したことが書かれているなど、栢間氏が鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であったことがわかります。
一方、江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』の栢間村の記述から、室町時代の康暦(こうりゃく)3年(1381)には、栢間の土地を鳩井(はとい)氏が支配していたことがわかります。また、栢間尋常小学校の建設を記念して明治45年(1912)に建てられた『紀功之碑(きこうのひ)』にも、当所が武蔵七党の一族野与小太郎行基の三男の萱間六郎弘光が開発した城址で、その後鳩井三郎義景に伝わったことが刻まれています。
このように栢間氏が栢間を支配していた期間は長くはありませんでしたが、現在も栢間の地名とともに、栢間の歴史を語る中で生き続けています。
紀功之碑
『紀功之碑』
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