第32回 市内で一番大きい板石塔婆(いたいしとうば) 建治(けんじ)板石塔婆
更新日:2018年7月25日
除堀の旧医王院(きゅういおういん)薬師堂(やくしどう)の前にある市指定文化財の建治板石塔婆は、卒都婆(そとば)・塔婆と呼ばれる仏教遺物の一種で、主に死者の霊を弔い供養するためのものといわれています。板碑(いたび)・青石塔婆(あおいしとうば)・板仏(いたぶつ)などということもあります。
板石塔婆は日本全国に分布しますが、その形態や材質はさまざまで、特に埼玉県に多く、荒川上流域や比企郡(ひきぐん)槻川(つきがわ)流域に産する緑泥片岩(りょくでいへいがん)を材料とした、上部が三角形の武蔵型(むさしがた)と呼ばれる板石塔婆が約2万基確認されています。市内では約600基発見され、設立時期は、鎌倉時代から室町時代前期に集中しています。分布地域は、鎌倉武士の本貫地(ほんがんち)とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられています。
この建治板石塔婆は上部と下部が欠損していますが、市内に現存するものでは最大の大きさです。種子(しゅじ)(仏を象徴する梵字(ぼんじ))は「アーンク」と発音し、胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)を表わしています。その下には蓮座(れんざ)があり、ともに深く豪快な薬研彫(やげんぼり)です。その下部中央には「建治参季(けんじさんき)(一二七七)丁丑忌辰(ひのとうしきたつ)八月八日」と紀年銘(きねんめい)があり、その左右に「今此三界(こんしさんがい)皆是我有(かいぜがう)其中衆生(ごちゅうしゅじょう)悉是吾子(しつぜごし)」(今(いま)この三界(さんがい)は、皆(みな)是(こ)れ我(わ)が有(ゆう)なり、其(そ)の中(なか)の衆生(しゅじょう)は、悉(ことごと)く是(こ)れ吾(わ)が子こなり/【意味】今この世界は私のものである。故(ゆえ)にその中に生きる衆生も全て仏(ほとけ)の子どもなのである)と、法華経(ほっけきょう)を出典とする偈(げ)(仏徳を讃嘆し、教理を述べたもの)が刻まれています。
市内の板石塔婆では、久喜北1丁目遍照院(へんじょういん)の建長7年(1255)が最も古く、最新のものは、本町1丁目光明寺(こうみょうじ)の天正8年(1580)のものです。
建治板石塔婆
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