第34回 旗本内藤(はたもとないとう)氏ゆかり天下泰平(てんかたいへい)を願った宝篋印塔(ほうきょういんとう)
更新日:2018年7月25日
江戸時代、菖蒲地区の半分以上の土地は旗本の内藤氏が領有していました。内藤氏は徳川家康十六神将(とくがわいえやすじゅうろくしんしょう)の一人と称される初代正成(まさなり)を筆頭に、代々が現在の菖蒲町下栢間に陣屋(じんや)を置き、明治維新を迎えるまでこの地を治めていました。この陣屋の南側に隣接する浄土宗善宗寺(ぜんそうじ)には、内藤家歴代の墓所として22基の宝篋印塔が残されています。また、これとは別に、山門を入った左手に「嘉永三年銘宝篋印塔」があります。
嘉永3年(1850)はこの石塔が建てられた年で、宝篋印塔は、鎌倉時代から盛んに作られ、石で作られた塔婆(とうば)の一種で、墓石や供養塔として用いられていました。また、祈願のための石塔という一面も持っていました。この嘉永三年銘宝篋印塔は後者のもので、隣にある宝塔記碑(ほうとうきひ)に、天下泰平や領内安全、主君内藤家の安泰などを願って造立されたことが記されています。
この宝篋印塔には塔の造立を発願した内藤家の家老や、内藤家が治めていた栢間村・小林村・新堀村・戸ヶ崎村(菖蒲町)・三箇村の5か村の名主や組頭の名前が合わせて144人記されています。また、石塔の表面に刻まれた「五箇村総百姓(ごかそんそうびゃくしょう)」の文字からも多くの農民の願いが込められていたことが読み取れます。
この宝篋印塔の特筆すべき点はその大きさで、最上部が欠損しているものの推定総高は5.7メートルを計り、全国的に見ても大型の部類にあるといえます。
石塔正面中央の反花座(かえりばなざ)には、唐獅子牡丹(からじしぼたん)の文様が丹精に刻まれています。また、上部塔身(とうしん)には、正面に阿弥陀如来(あみだにょらい)、東面に勢至菩薩(せいしぼさつ)、南面に釈迦如来(しゃかにょらい)、西面に観音菩薩(かんのんぼさつ)を表す梵字(ぼんじ)がそれぞれ刻まれています。優雅さと繊細さを併せ持った宝篋印塔といえるでしょう。
嘉永三年銘宝篋印塔
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