第158回 宮内翁助(みやうちおうすけ)と明倫館(めいりんかん)

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ページ番号1010338  更新日 2025年3月27日

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 明治5年(1872)に学制が発布され、たくさんの初等教育機関(現在でいう小中学校)が建てられました。その一方で、中等教育機関(現在でいう高等学校)の整備はあまり進まず、埼玉県内では明治29年に浦和・熊谷で県立中学校が開校するまで、東京府内の学校や数少ない私立学校に依存せざるを得ませんでした。この状況を憂(うれ)い、地域の中等教育充実のために動いたのが江面村(現久喜市下早見)出身の県会議員の宮内翁助でした。

 宮内は明治25年に中学校設置問題で県議会が解散されたのを機に県会議員を辞職し、江面村の宝光院(ほうこういん)を仮教場として私立専門学校明倫館を設立しました。明倫館の授業料は公立中学校の半額ほどで、入学者も当初は定員の三分の一にも及ばなかったため、授業料に頼る経営は困難で、財政的な不足は宮内家の私財を投じて補いました。また、明治36年には宮内が所有する敷地に校舎を新築移転しています。

 明倫館の設立当初の教育課程は、かつて宮内が師事した中島撫山(なかじまぶざん)の皇漢学(こうかんがく)を中心に、外国語や算数にも力を入れたもので、修業年限は本科4年、研究科3年の7か年でした。その後、中学校課程と適合するように教則改定を行い、明治44年には尋常(じんじょう)小学校6年の修了者を4か年教育する課程に変更されました。

 宮内翁助は明治35年から衆議院議員を3期務め、大正元年(1912)に亡くなりました。その後、明倫館を継いだ長男の純は、剣聖高野佐三郎(たかのささぶろう)に学んだ剣の達人で、授業でも剣道を取り入れた特色ある教育を行いました。明倫館では昭和初期に生徒数が200名に達していましたが、県内の中等教育機関が整備されたことで生徒数が激減し、昭和10年に43年間の教育的使命を終えて廃校となりました。

 明倫館は久喜市域をはじめとした埼玉県東部地区の人たちにとって、かけがえのない教育の場としての役割を果たし、地域の発展を担う人材を多数輩出しました。

昭和初期の明倫館の写真
昭和初期の明倫館

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