第110回 古利根川の中世水路関「鷲宮関」と「霞ヶ関」
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
江戸時代初期のいわゆる「利根川東遷(とうせん)」以前、鷲宮は利根川が分岐する交通の要衝(ようしょう)でした。当時の利根川の主流は、羽生市川俣から会の川筋に東流し、加須市川口で渡良瀬川の分流である浅間川を合わせ、鷲宮で島川に東流する一流と古利根川に南流する一流とに分かれていました。現在の葛西用水路は旧利根川(古利根川)の流路の一部を利用したものです。
鷲宮は古利根川右岸の自然堤防上に位置する集落で、鷲宮神社の門前町として発展してきました。当時鷲宮では、太田荘の総鎮守である鷲宮神社を中心に、経済活動が盛んに行われていたと考えられています。
天文8年から21年(1538~1552)頃に書かれたとされる古河公方(こがくぼう)足利晴氏(あしかがはるうじ)の書状(大内家文書、埼玉県立歴史と民俗の博物館保管)には、鷲宮神社の神主に対し鷲宮関と町役の権利を安堵(あんど)(保証)した内容が記されています。この書状からは、鷲宮神主がこの地点の利根川を通行する船から関銭(せきせん)(交通料)を徴収していたことや同社を中心に門前町が形成されていた様子がうかがえます。
また、鷲宮の対岸に位置する西大輪の曹洞宗迦葉院(かしょういん)は、「霞ヶ関」という関所跡であったと伝えられ、山門には「古霞関」の扁額が掲げられ、この辺一帯に河関(かわぜき)があったと考えられています。西大輪の迦葉院から南の葛西用水路(古利根川とも呼ぶ)辺り一帯は「霞ヶ関」という呼び名が口承で伝えられていて、今でも「霞ヶ関橋」や霊園など、ごく一部にその名残をとどめています。
中世の河関は川の両岸に設置されていたといわれていることから、かつて利根川の河関として「鷲宮関」と「霞ヶ関」が川を挟んで一体となって機能していたことが想像できます。
「古霞関」の扁額を掲げる迦葉院の山門
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