第53回 江戸時代の名代官早川八郎左衛門正紀(はやかわはちろうざえもんまさとし)
更新日:2021年4月8日
久喜市に「名代官」と称(たた)えられた代官がいたのをご存じでしょうか。
江戸時代、久喜には米津(よねきつ)氏が治める久喜藩がありましたが、寛政10年(1798)に出羽国(でわのくに)村山郡長瀞(ながとろ)(現山形県東根市)に領地替えとなります。その結果、久喜藩の領地は幕府領となり、享和元年(1801)には、当地の代官として早川正紀が着任しました。
早川は、通称を八郎左衛門といい、元文4年(1739)に笠間藩主井上河内守(いのうえかわちのかみ)の家臣和田市右衛門(わだいちうえもん)の次男として生まれ、のちに徳川御三卿(とくがわごさんきょう)の一つ田安(たやす)徳川家の家臣早川正のぶ(まさのぶ)の養子となります。その後、明和3年(1766)、28歳の時に早川宗家(そうけ)の早川正與(まさとも)の跡を継ぎ、幕臣となりました。
天明元年(1781)、43歳の時に初めて代官に任じられ、出羽国尾花沢(現山形県尾花沢市)5万石を治めました。天明7年(1787)には、美作国久世(みまさかのくに)(現岡山県真庭市)に転任し、備中国(びっちゅうのくに)笠岡(現岡山県笠岡市)も兼ねて7万石を治め、郷学(ごうがく)「典学館(てんがくかん)」・「敬業館(けいぎょうかん)」を設立するなど、民衆教化に務めました。寛政9年(1797)には、多くの功績が認められ、幕府から褒賞を授かっています。
享和元年、63歳の時に武蔵国(むさしのくに)久喜10万石に転任となります。久喜では、享和3年(1803)に郷学「遷善館(せんぜんかん)」を設立するほか、利根川や荒川などの治水事業にも手腕を発揮しました。
「名代官」と称えられた早川は、文化5年(1808)、病のため70歳で亡くなっています。現在(平成28年3月現在)、郷土資料館では、早川が晩年に記した「六教解(ろっきょうのげ)」(明(みん)の洪武帝(こうぶてい)が民衆教化のために発布した教訓「六諭(りくゆ)」の解説書)を常設展示室で紹介しています。
六教解
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