第97回 久喜歴史だより 田山花袋(たやまかたい)が愛した稲荷屋(いなりや)
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
栗橋地区には、昔の宿場の本通りと平行して流れる利根川との間にある堤防部分に、河岸(かし)として栄えていた船戸町がありました。
この船戸町には、明治時代後半の資料をみると、回漕業、米商、材木商など多くの店が軒を並べていました。その中の1軒に料理屋と旅館を兼ねた「稲荷屋」がありました。稲荷屋は近郷では知られた川魚料理屋でした。
利根川に向けて張り出すような店を構えており、川岸に桟敷(さじき)を作るなど風情溢れる店であったようです。
また、この辺りは、富士山、日光連山や筑波山が望める風光明媚(ふうこうめいび)なところでした。
明治・大正時代の小説家で『田舎教師』で著名な田山花袋もこの稲荷屋を愛した人の一人です。
花袋は友人を誘い、よく稲荷屋に足を運んでいました。大正5年(1915)刊行の紀行文の中には、利根川の堤防に上ると「白亜(はくあ)の土蔵だのがその上に並んでいて、その間に挟まって、しもたやのような家が一軒ある。そこを私は好きでよく出かけた。東京近郊で、一日ゆっくり遊びに行くところで、これほど好い料理屋はないと私は思った。それはいなり屋と呼ばれていた。利根川の鯉の料理でかなり人に知られていた。」と記しています。
その後、大正15年に刊行された紀行文の中では「いなり屋は代が変って昔のような面影は何処にも見出せなかった。」と船戸町の寂れた様子を嘆いています。
これは大正13年に竣工した利根川橋による道路輸送の発展に伴い水運が衰退し、稲荷屋の繁栄にも陰りが生じたものと思われます。
稲荷屋の奥座敷
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