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第61回 え、女子校? 「埼玉県立久喜高等学校」の校名

更新日:2017年1月19日

 女子校というと、校名に「女子」が入っていることが多いですが、「埼玉県立久喜高等学校」には入っていません。なぜこのような校名になったのでしょうか。
 同校は、大正8年(1919)創立の「久喜町外十五か町村組合立久喜実科高等女学校(じっかこうとうじょがっこう)」が格上げされるかたちで、大正10年(1921)に「埼玉県立久喜高等女学校」になったのが始まりです。県内の高等女学校としては、明治33年(1900)の浦和、明治44年(1911)の川越・熊谷に次いで4番目にあたる県立高等女学校でした。
 このような動きの背景には、明治政府による女子教育の奨励政策があり、特に明治32年(1899)に政府が策定した「高等女学校令」が大きく後押しをしました。この時の文部大臣樺山資紀(かばやますけのり)は、高等女学校の性質を「優美さと気品」、「また穏やかで素直な心根と操を守りおしとやかさを培い」、「良妻賢母の素養を身につけるためにある」と説明しています。
 大正10年当時の東京日日(にちにち)新聞には、「久喜実科高女の昇格運動猛烈」や「県立高女は久喜町に」といった見出しで、この頃久喜と春日部とで競っていた県立高等女学校への昇格争いを報じています。結局、春日部に県立高等女学校ができたのは昭和5年(1930)のことでした。
 戦後の昭和23年(1948)に「埼玉県立久喜女子高等女学校」と改称しますが、昭和24年(1949)に男女共学の定時制が併設されると、現在の校名に変更されます。その後、昭和25年(1950)から全日制でも男女共学になりましたが、男子の志願者が減少したため、昭和32年度から全日制の男子募集枠がなくなりました。しかし、その後も定時制の男女共学は継続されたので、「埼玉県立久喜高等学校」の校名は変更されずに、現在も使用されているのです。

昭和10年(1935)頃の「埼玉県立久喜高等女学校」校舎と表札
昭和10年(1935)頃の「埼玉県立久喜高等女学校」校舎と表札

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